日本最初の「スキー教本」を紹介します 2008.07.06
 我が国最初の「スキー教本」は,明治44年に陸軍第13師団編纂の『日本スキー教育本』です。写真は,その巻頭ページのコピーです。
巻頭言に,師団長の長岡外史の名前が見えます。教本の概要は,メニュー「4.スキーの歴史」の中に掲載しています。『レルヒの足跡』(原田廣記)とともにご覧ください。
ご覧になってのご感想・ご意見をメニュー「8.レルヒ掲示板」または原田廣記会長アドレスへお寄せください。
写真あり 西白石小学校でスキーの歴史を講演 2008.02.07
写真あり 札幌市内小学校のスキー学習はじまる 2008.01.30
写真あり 大倉山夏季最終ジャンプ大会開催される 2007.10.30
写真あり ロシア(サハリン)のスキー場の現況  原田廣記 2007.10.11
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「日本最初のスキー教本」  レルヒ会々長 原田廣記 2007.05.17
 私のスキーとのかかわりは、幼稚園の頃からスキーを始めて,楽しみながら過ごしてきたのだからかなりの年月になります。昭和40年にスキーパトロールの奉仕活動を始め,昭和47年の札幌冬期オリンピックの役員をしているときに「スキーは、いつから始まったのか?」「誰が教えたのだろうか?」などと疑問が沸き,あれこれ調べているうちに「レルヒ中佐」のことや,今回紹介する「スキー教本」のことなどにたどりつきました。ここに紹介する『日本スキー教育本』こそが,我が国最初のスキー教本であると私は考えています。以下の概要について,諸氏の感想やご意見を数多くいただきたいと願ってます。このホームページの「3.LERCH ニュース」の写真は,同書巻頭ページのコピーです。書名とその概要は,次のとおりです。

1.書名・発行年・編著者   『日本スキー教育本』 
  明治44年9月   陸軍第13師団刊行
         師団長  長岡外史中将
         スキー研究委員長 堀内文次郎大佐
         スキー研究員 山口十八大尉

2.発刊にあたり〜長岡中将
  楽 東 風 粲 (春の風陽光に輝く情景を)
  雪 饗 之 中 (大雪原の演習に楽しむ) 

3.スキー帳序文〜堀内大佐 
 スキーとは何か、私はこれについて説明しようと研究をしました。男でも女でも真冬の雪を克服し楽しむことである。その素晴らしさは百回聞くより一回見るほうが理解できる。「私は、スキーの将来に大きな望みを託しています。」

4.スキー解説〜山口大尉
(1)スキーの由来
 昔から、ノルウエーやスエーデンの北部で冬期雪の上で使用するカンジキを長い木製の形に変えスキーを初めて作った。これがノルウエーはじめヨーロッパやロシアの北の地方に広く使用された。南ヨーロッパには1890年頃スキーを国境の山岳地帯「アルプス」山脈で使用し、国防や交通に便利であることが分かりスキー学校を作り講習会を開いた。アメリカ・カナダでもスキーを導入し使い始めた。
 我国日本では、明治43年12月スェーデン駐在杉村公使より、スェーデン国軍用のスキー2種類が陸軍省に寄贈され製造した。同省は、高田第13師団にスキーの研究を指示、同時にスキーの名手オーストリャ国軍参謀少佐テォドル・エドラ・フォン・レルヒ氏に高田13師団付の勤務を依嘱して、スキー技術を指導させた。
(2)スキーの構造
 スキーの形や構造は、使用の目的や使う人によって変わるが、スキー板と締め具の二つの主要な部分に大別できる。スキー板の材質は、けやき・しおじ・とねりこ等の折れにくく軽い材質の木で作り、長さはその人が立って片手を伸ばした長さが適寸で約180〜230cm、幅は約9cm、厚さは一番厚いところで3cmです。締め具の構造は、各国で多少の違いがある。その他必要なものは、ストック。長さは使用するスキーの木部と等しくし下端には石突きがつく。長めの手袋は上着の袖まで。
(3)スキーの効力
 スキーは雪が深いところならば、どのような所でも容易に登ることができる。急斜面でも登行は可能であり、降りるときの速度は「ウオーターシュット」。「シュット」はドイツ語で「落下」の意。スピードが加速するが急停止や進行方向を変えることが自由に出来る。スキーは一般の交通では郵便・電信の集配や鉄道・電線等の保全係、水道の管理、警察そして軍隊・医者や産婆さんは必要とする道具である。体育遊戯としては、至る所にゲレンデを求めることが出来る。危険も少ないスポーツである。以上の説明をもって巻頭言とします。
 
5.スキー技術教育基準表
(1) 解 説―スキーの由来と効用・その付属品の構造と製作法・保存方法と修理方
法・スキーの服装及び用具・気象が及ぼす積雪・事故と危険予防の方法・団体
でのスキーツァー教育・跳飛運動。
(2) 講習単位ー4単位。  1単位は半日(3時間)とする。
(3) 基 本―スキーの運搬方法・着脱・ストックの使用方法・転倒と起き方・雪上での
立ち方・滑走。
(4) 練 習―登行・横への移動・方向変換と方向転換・滑走中の急停止・制動滑降・
回転滑降・横滑り。
(5) 講習単位―(基本・練習)36単位。
(6) 応用演習―障害物の中のスキー操作・雪中での休憩・難しいコースのスキー操
作・各種の雪質と悪天候下の中でのスキー行対策・高地でのスキー操作。
(7) 講習単位ー16単位。

6.スキー技術教育予定表
・1日目―(午前)室内にて,スキーの由来大要・スキーの構造・スキーの種類・スキー
   各部の名称・手入れ保存の方法・ストックの構造と用途・スキーの服装と用具。
    (午後)野外にて,スキーの着脱と準備の起立姿勢・スキーの持ち方・雪上の立
 ち方と歩行・棒状ストックの持ち方。
・2日目―(午前)平地の歩行・方向変換・方向転換(キックターン)。
     (午後)平地での歩行・緩斜面での立ち方と歩行。
     2日目以降21日目までは,総て野外とする。
・3日目―(午前)推進滑走・横への移動・後ろへの移動・緩斜面の滑降。
    (午後)危険に対しての予防法・スキーの用途と価値。
・4日目―(午前)小さい溝の通過・小橋の通過・転倒と起き方の練習・緩斜面の滑
   降・スキーについた雪の除雪方法。(午後)諸復習。
・5日目―(午前)稲妻形の斜登行・斜滑降。(午後)諸復習。
・6日目―(午前)階段登行・中程度の斜面の滑降。(午後)色々な斜面の滑降。
・7日目―(午前)今までの復習。(午後)スキーの点検手入れ。
・8日目―(午前)階段登行・横滑りと停止。(午後)午前中の復習。
・9日目―(午前)回りくねりひねった斜面の滑降。(午後)滑降中の急停止技術。
・10日目―(午前・午後)前日の復習。
・11日目―(午前)制動滑降。(午後)諸復習。
・12日目―(午前・午後)キックターン・回転・急斜面の滑降と急斜面キックターン。
・13日目―(午前・午後)諸復習。
・14日目―(午前)障害物のある場所の滑り方(凹凸地や幅の狭い樹林地)。
      (午後)転倒時の対処の仕方・ツァーの注意。
・15日目―(午前)復習。(午後)山岳ツァー出発の準備。
・16日目〜18日目―山岳ツァー(二泊)。
・19日目―(午前)復習。(午後)ビバークの設備と資材運搬方法。
・20日目―(午前)技術検定。(午後)テレマーク・クリスチャニャ急停止。
・21日目―(午前・午後)テレマーク急停止・クリスチャニャ急停止。

 以上は、明治44年に日本で始めて編纂された「スキー教本」,すなわち,「第13師団スキー研究委員会」よりの転記と当時の新聞等を参考にしてまとめました。中央図書館には,各種新聞記事がマイクロフイルムに保存されてあります。また,北海道大学図書館にもスキー関係の図書や資料が保存されていて,学外の一般市民も利用することができます。

レルヒ中佐の足跡 2007.01.23
 テオドル・エドラ・フォン・レルヒ中佐は,1869年(明治2年)8月31日,ハンガリーのプレスブルク(現在のスロバキアの首都プラチスラバ)で生まれ。プレスブルクは,オーストリアのウィーンに近い国境の町。父も軍人で,ウィーンの学校を出て軍人となり,スキーを,オーストリアの第一人者で世界初のスキー書「リリエンフェルト・スキー滑降書」を著したマチアス・ツダルスキーに学んだ。
 レルヒは,1910年(明治43年)11月30日,日露戦争に勝利した日本の軍事研究のため横浜港に着く。当時少佐のレルヒは,多雪地への配属を要望,翌年1月5日,第13師団歩兵第58連隊が所在する新潟県の高田(現在の上越市)に赴任した。( ヘッダ左の小さな写真は,上越市の「日本スキー発祥記念館」にあるレルヒ中佐の像です。)
 レルヒは,東京の歩兵工廠にスキーを注文,取り寄せる。師団長の長岡外史中将は,連隊長の堀内大佐をスキー研究委員長に任命。12人の将校とともに3月12日までの34日間,スキー携帯法・行進法・登行法・滑降法・制動直滑降等の指導をレルヒから受けさせた。その時,県内の中学校の体育教師も講習を受けている。
 同年9月,中佐に昇進したレルヒは,1912年2月6日,第7師団野砲第7連隊付きとなり,旭川へ赴任。レルヒの名は,スキー指導者としてすでに全国に知られていた。第7師団でも研究会がつくられ,各連隊からの将校3人ずつが2月20日から3月11日までレルヒの指導を受けた。
 講習はリリエンフェルト式で,先に金物の石突きが付いた約2メートルの単杖竹(1本杖)を用い,スキーは単板2枚,金具はかかとが上がるスプリング付きのアルパイン式。シュテムファーレン,ボーゲン回転法・直滑降などを指導した。
 受講した月寒第25連隊の三瓶勝美中尉・松倉儀助中尉・中澤治平少尉の3人は,札幌へ戻り「レルヒ直伝」講習会を3月22日から開く。軍人のほか東北帝大農科大(現北大)の学生や中学体育教師・一般の人も参加した。月寒練兵場と月寒小学校裏の丘で行われ,斜面滑り・片足滑り・急斜面電光形登りなどの基礎技術を学んだ。
 3月31日,三瓶中尉ら軍人と学生10人は,藻岩山でスキー登山を行った。現在のロープウエイ近くからジグザグに登り,山頂まで約1時間20分。下りは現在の市民スキー場近くを滑り,藻岩下から石山通りへ出て,南36条から豊平川を渡り,真駒内牧場へ達した。同中尉らは,その後も4月5日に三角山登山。7日には小樽へ遠征している。
 レルヒら一行は4月16日,旭川から倶知安へ汽車で行き,翌17日に羊蹄山に登った。一行は,中澤少尉を含む11人。午前8時35分に出発し,約9時間かけ登頂,午後5時40分には戻った。このことが当時の新聞に大きく取り上げられ,スキーのおもしろさが広まり,スキー熱は大いに盛り上がった。
 視察のため派遣されたレルヒだが,日本にスキーを伝え広めることに大きく貢献した。オーストリアに戻ったレルヒは,その後少将に昇進,1945年12月23日,ウィーンで没した。77歳だった。墓は,ウィーンの中央公園墓地にある。
 ( この文章は,本会会長の原田廣記が北海道新聞の依頼を受けて寄稿し,2003年4月19日付の北海道新聞に「レルヒ中佐の教え子たち,札幌で直伝講習会」と題して掲載された文章の草稿です。)



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